松原八幡神社秋季例大祭の歴史
ー旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー
執筆された寺脇弘光(郷土史家)先生はこの本で次のように紹介されています。
豪華な祭り、勇ましい祭り、荒々しい祭りとして知られてきましたが、それら
はすべて外観上の見解にもとづくもので、この祭りのもつ本質的な面について
ふれた見解は・・(中略)
私は「灘まつり」の核心をとらえたその名文に驚くとともに、「灘まつり」に
対する真の理解者が現われたことに心からの喜びを感じました。その小文の執
筆者は、映画監督でシナリオ作家の松山善三氏で、直情径行の氏は歯に衣着せ
ぬ調子で次のように述べています。
美しい魂のおののきー灘の喧嘩祭りー
戦争に負けた時、ぼくたちは餓鬼道(がきどう)に堕ちていた。どっちを向い
て生きていたら良いのか皆目分からず、ただ、その日その日の糧をあさって、
焼跡に鍬うつことさえ忘れていた。
祭り囃しなど、思いもよらなかった。
朝鮮戦争という他国の不幸を足がかりにして、やっと白いおまんにありつけた
けれど、敗戦ボケは、ますますひどくなって、「祭り」は、人情と一緒に破り捨
てられ、顧みられなくなっていた。
そして二十数年。「故郷」とか「手作りの味」とかいう言葉と一緒に、やっと、
祭りがかえってきた。けれども、今日の祭りは、昔日の祭りではない。
目に見えぬ神秘や、自然へのおそれ、人間へのやさしい思いやり、そういうも
のはすべて、祭りの中から消えてしまった。今ある祭りは、ショーでしかない。
アルバイトを頼んで神輿をくり出したり、同好の士だけが、神楽を舞ったりして
いる。祭はかえって来たけれど、祭りの心はかえって来なかった。ぼくはそう思
っていた。灘の喧嘩祭りを見るまでは。
灘の喧嘩祭りをこの眼に見た時、ぼくは、そのあふれる活気、怒声、歓声に驚
嘆した。ぶつかり合うのは、肉体ではなく、心と心である。
ひきまわされる神輿は、ぼくたちの祖先であり、その渦中にある時、ぼくたち
は、はっきりと、自分が歴史の中に生きていることを知る。
祭りは見るものではなく、神を祭り、自らを祭るのでなけれが意味がない。形
骸しか残っていない日本の祭りの中で、この喧嘩祭りだけは、そこに生き、そこ
に帰る「ふるさとの若者たち」のものである。これはショーではない。美しい魂
の、おののきである。
(昭和四十八年刊「詩情の姫路」第七号)
二十年前、このコラムを知り感激で身の毛がよだつとは、このことかと想ったこ
とが昨日のように浮かびます。今みると内容は少し古くて、実情とは違った見方
もあるようですが、このように「心あたたまる」評価をして下さっている先生方
は他にも大勢いらっしゃいます。こんなに素晴らしい「灘のけんか祭り」を残し、
引き継いでこられたご先祖に感謝しつつ次世代に伝えていくのが今を生きる我々
の務めだと思っています。
参考文献
松原八幡神社秋季例大祭の歴史
ー旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー
発行日 平成七年十一月十五日
執 筆 寺脇弘光(郷土史家)先生
発 行 灘の松原自治会
会 長 田 中 康 夫(故人)
写真提供 ふるさか こおじ 氏 fbより
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