松原八幡神社秋季例大祭の歴史
ー旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー
近世の例大祭に出現した氏子七村の出し物
ー獅子檀尻・丹鶴・神輿太鼓の出現ー
近世の例大祭に出現した氏子七村の出し物
近世に入りますと、例大祭は歴史上のが画期的な変動によって大きな影響を受け、
神社側は物心ともに苦しい再出発を強いられ、氏子側は基本的には村単位での
祭礼参加という形で氏子七村からさまざまな出し物が出現したのです。
もともと、例大祭の神幸行列への出し物は、神輿をはじめ
社宝・武具・道具類などすべて神社自体の出し物で、氏子たちはよれらを運ぶ
というのが割あてらた役目でした。
それが、情勢の変化によって、村または村内の集落単位で
氏子側からの出し物も認められるようになったのです。
宝暦八年の「八幡宮御神事御規式定」にありますように、
獅子・練り物・丹鶴(べにづる)で、これらの出し物が、次々と
神幸行列に姿を現し、神輿に付き従う形で行列に加わるようになったわけです。
獅子は獅子舞の獅子を意味し「灘まつり」では小型の引き檀尻と一体の関係に
ある出し物とみられていますが、この獅子檀尻(松原では獅子屋台と呼びます)が
例大祭に登場したのは近世に入ってからです。
獅子舞いは豊作を祈り悪魔を祓う行事として以前から当地近辺ではよく知られ
例大祭への氏子村からの出し物が認められ、宝暦八年(1758)の時点で
松原村・木場村・東山村・妻鹿村・宇佐崎村・八家村の各獅子檀尻が
神幸渡御に参加していますが、露払いの役目を古来一貫して勤めてきた
のは松原村でこの檀尻を引くだけではなく練り上げて地面に放り投げたりも
しますので、獅子屋台と呼んで現在に至っています。
例大祭に登場したのは近世に入ってからです。
丹鶴(べにづる)の登場
ー地狂言と舞台付檀尻ー
祇園囃子などと同様のいわゆる風流の楽器を演奏する囃子方と、
俄(仁輪加 にわか)狂言を演じる舞台付き檀尻とで構成していた模様です。
囃子方は、小太鼓・鼓(つづみ)・三味線・笛・鉦(かね)などの楽器を
持った十人~十二人の囃子手が、四本の長い竹の棒で囲われた長方形の枠の
中に入って、それぞれの楽器を奏し囃子詞(ことば)を掛け合いながら
丹鶴檀尻の前方を進んだ模様ですが、竹枠は数人の男たちが枠の四隅などで
地面に落ちないように保持しています。
子の囃子方の後方を二十人前後の子供たちに引かれた
小さな舞台付き檀尻が進みますが、舞台には数人の僧衣のお坊さんが乗って
います。そのため、丹鶴檀尻は御坊乘檀尻とも呼ばれたようですが、
このお坊さんの役目がどのようなものだったのかふめいです。
宝暦八年の「八幡宮御神事御規式定」に、神幸渡御の往路は、
出し物別では丹鶴が神輿太鼓(屋台)の先を進むが、復路は
丹鶴狂言を演じ、時間がかかるため神輿太鼓を先に帰し、丹鶴が
行列の最後尾になることが書いてあります。その当時の祭礼行事では、
神輿太鼓は人気の的とはなっておらず、もっとも人気を集めていたらしく
演じていたのは、御旅神社から山をおりた矢倉畑(広畑 ひろばたけ)
あたりと思われますが、具体的内容は不明です。
なお、宝暦八年(1758)時点で丹鶴を出していたのは、
木場村西・宇佐崎村・木場村・妻鹿村の三村一地区で
木場村西は毎年は出さなかった模様です。・・・・中略
明治以後はすっかり衰退してしまいましたが、多少参考になるものとして、
網干の魚吹八幡宮の秋祭りの四台の檀尻があります
・・・以上ような内容で記述されています。
守護・地頭の荘園侵害による荘園制の衰退、
一気に台頭した播磨の豪族赤松氏との相互協力と石清水八幡宮への反抗で
地元住民のトップクラスが勤めていた荘園の下級役人と八正寺社僧の
発言権が大きくなったことで大きく変わっていきます。
参考文献
松原八幡神社秋季例大祭の歴史
ー旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー
発行日 平成7年11月15日
執 筆 寺 脇 弘 光 先生(郷土史家)
発 行 灘の松原自治会
会 長 田 中 康 夫
松原史編集委員会
田 中 康 夫 北 村 泰 生 継 谷 芳 久 大 和 亀 一
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