まつり

流鏑馬を主にした放生会

ー松原八幡宮中世前期の放生会ー

松原八幡宮の放生会は、平安時代から鎌倉時代に入っても、

さらに盛大に行われるようになりました。


特に流鏑馬(やぶさめ)が行なわれ祭礼行事の主役を演じるようになりました。

これは、平家から源氏に政治権力が変わり、

武家政治を始めた源氏の氏神が八幡神だった関係上、

弓矢の神、武人の神として崇められ、源頼朝が文治三年(1187)に鎌倉の

鶴岡八幡宮で初めて放生会とともに流鏑馬の行事を催したのが先例となり、

各地の守護・地頭に任じられた鎌倉幕府の御家人たちを通して、

諸国の八幡神社に早々と伝わって行った模様です。



武士が馬を走らせながら馬上から鏑矢(かぶらや)を射る弓技で、

馬場の走路脇に的板を立て、狩衣(かりぎぬ)に箙(えびら)

を付けた姿の武士がこの的板を射るというのが、通例になっていました。

放生会が例大祭でなくなってから少し後の十四世紀中頃に著わされた

「峯相記 みねあいき」という有名な書物の中に

「松原ノ別宮ト申スハ・・・・・・神事祭礼厳重ニシテ、

近キ比マデ当国重大ノ人々、放生会ノ鏑流馬(流鏑馬)ヲ

巡役(メグリヤク)トス」とあって、

松原八幡宮の放生会で流鏑馬が

「当国重代ノ人々」つまり播磨国の何代も前の人たちから代々、

「順役」すなわち当番制で行われてきたことを知ることができます。


「松原ノ別宮 ベツグウ」とは石清水八幡宮の所有する多くの荘園の

うち特に重要な荘園を管理する神社に与えられた特別の称号で、

末社ではなく特に重要視されていたことを物語っています。



参考文献 

                 松原八幡神社秋季例大祭の歴史  

-旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー

発行日 平成七年十一月十五日    

執   筆   寺 脇 弘 光 先 生(郷土史家)

発 行 灘の松原自治会

  会 長 田 中 康 夫  

松原史編集委員会

   田 中 康 夫 北 村 泰 生 継 谷 芳 久 大 和 亀 一

故人になられた方ご冥福をお祈りします。(敬称略)

    いよいよ

    近世の 「灘まつり」

       


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