まつり

松原八幡神社秋季例大祭の歴史

ー旧松原村を中心にした「灘のけんか祭り」のあゆみー

地元出身の 𠮷田 豊信(故人)元姫路市長 の本誌へのご寄稿で

 この土地

この土地は律令の昔

  班田制の区割りが行なわれ

この土地は昭和の今

  区割り整理の地割を行う

この土地は

  かくわれら 父母より受け継ぎ

  かくわれら 子孫に引継ぐ

この土地は

  永久(とわ)に栄える

   故郷(ふるさと)であれ



「播州飾磨郡松原山八正寺神事軌式の亀鏡」の記述内容

前回にご紹介した上記について綴っていきますと

一、九月朔日(ついたち)、天童の役をつとめる子供は、足を洗ってから長勅(ちょうり)

のもとへ来て、お祓いを受けた上で神社に参詣すること。



一、同日、神事にたずさわる祝(はふり)の神役人たちは精進に入る。(長勅のもとへ来

て、清めを受け、三業(さんごう)を明らかにしてから精進に入る)



一、同九日、三太神の大祓(おおはらえ)をすること。(「行叓記ぎょうじき」の通り)



一、同十一日、七五三替(しめかえ)をすること。



一、十二日、諸事の役割を定めること。



一、十四日の朝、敷地の百姓を林の中に出させて道筋の掃除をするが、これは承仕(しょう

じ)が奉行となって行うこと。附(つけたり)、御柱松をたてるの承仕の先頭役の役目であ

る。


一、十四日の申の刻(午後四時)、神輿を飾るが、これは承仕の役目である。次いで、二和

尚以下の者は出仕すること。



一、十四日の夜、神輿を警固するのは東山の祝(はふり)の神役人たちの役目である。(但

し、右の役料として、神輿の前の賽銭と御供米とを与える。



一、同夜、神楽所(かぐらどころ)の警固は蛭子(ひるこ)大幸房の役目である。



一、同子の刻(深夜十二時)、長勅の巻数加持(かんじゅかじ)がある。次いで、祝の一行

仕(ぎょうじ)は巻数を入れ物に納め、次に御幣(ごへい)祓の支度をすること。



一、十五日の寅の刻(午前四時)には、長吏の遷宮の儀式がある。長吏の作法が終わると、

次に承仕の先頭役が玉殿の錦帳(きんちょう)をあげ、長吏は横後(うしろ)に御神体を

覆ってお遷(うつ)しする。神役人たちは神輿の御簾(みす)を上げてお遷しを待つ。二和

尚の祝詞があり、社僧たちが読経してお勤めをする。次いで管弦の雅楽があり、それが終

わってから神輿の御神幸(ごしんこう)がある。御神幸は、祓松の内に三基の神輿を据えつ

けて、承仕の二座役が鳳凰(ほうおう)を差し、次に承仕の先頭役が底火を焼き、次いで祝

の一行仕が神役人たちを祓い清める。


御幸(神幸)行列の事(行列順)


先一番的板 西脇東の役

 

 二番御鉾三本 西脇西の役

 

 三番御道具

 

 四番西脇祝(はふり)

 

 五番承仕三人

 

 六番衆徒(社僧)長吏

 

 七番御弓 東山神役人

 

 八番歩射崎(ぶしゃざき)祝の一行仕

 

 次 壱ツ物(ひとつもの) 西脇中の役

 

 次 神輿

 

 次 天童三人 壱組(ひとくみ)は西脇西の役

        弐組(ふたくみ)は目賀(めが)の役

 

 次 御立傘(たてがさ)三本

 

 次 神馬(しんめ)白装束

 

 次 流鏑馬(やぶさめ)諸役人

    以上


一、鉾の立つ所は、御神幸の時は立岩の西上がりに立て、また目賀の坂下にも立てる。


一、「がうなをとし」(ごうなおとし、通称ゴイナオトシ)で、神輿を三基とも据えておい  

て、長吏は祝詞、二和尚以下の者は法楽(はうらく)を手向け、そのあと宿院殿に神輿を納

めて安置する。


一、宿院殿で百味(ひゃくみ さまざまな美味珍味の御供物)を供える東山神役人は覆面を


そて取り扱う。西脇の祝(はふり)は覆面で梅の酢和を拾って覆い、次に神役人たちがこれ


を供える。次いで歩射崎の一行仕が神役人たちを集めて祓い清め、承仕の下座役が御供太鼓


を始める。次に西脇の祝が三基の神輿の御幣を集めて持ち、一行仕へ渡す。次に神役人たち


がそれを受取ってきて、長吏の西脇に蹲踞(そんきょ)して長吏に渡し、一礼して右脇に着


座する。長吏は幣帛(へいはく)を振ってお祓いをし祝詞をあげる。二和尚が御供加地を


し、大衆(だいす 一般社僧たち)が陀羅尼(だらに)をとなえる。次に管弦の雅楽があ


り、それが終わってから流鏑馬がある。


一、還御(かんぎょ)の時は、鉾を西蓮寺の西に立てる。祓松の通りに神輿を据えておい


て、鳳凰をおろし、社殿へ納める。次に神役人たちが御供物を供えるが、格式は宿院殿と同


じである。高良大明神と三太神にも各々御供物を供える。次に御神体を本殿にもどす上遷宮


の作法があり、長吏と二和尚が御供加持を行い、大衆が般若護国の神咒(しんじゅ 摩訶般

若波羅蜜多心経)をとなえる。

     

        已上(以上)


一、神馬三疋、金田村より出る。


一、当銭の儀は、国司より行事坊へ渡れば、行事坊がこれを支配する。


一、当米の事については、これは庄内よりでる。

 応永三年(千三九六)九月



以上が今から600年前の松原八幡宮秋季例大祭神事の執行基準を記録した史料の内容です。 ・・・中略 

屋台や檀尻はまだ全く出現しておらず、神社主体の神事が神宮寺である八正寺の社僧を中心

に執行されていたわけです。 ・・・中略


「用語解説」


<長吏 ちょうり> 八正寺の寺中全体を総括した社僧。


<二和尚 におしょう> ほとんど聞きなれない用語で、二人の和尚という意味と、長吏に  

次ぐ二番目の序列の和尚という意味との二通りの解釈ができますが、文章から察して後者の

二番目の序列の和尚という意味と思われます。


<大衆 だいしゅ> 八正寺の書院や末寺の社僧たち。「だいす」とも言います。


<承仕 しっうじ> 八正寺の雑役をつとめた僧形の人。三人いて、旧暦九月十五日の神事

では専頭(先頭)・二座・下座の三役に分かれて神事をつとめました。


<東山神役人 しんやくにん> 四人いて、この史料では「東山祝之諸色代 はふりのしょ

きだい」とも書かれています。現在は”社人”(しゃにん)と呼ばれています。


<歩射崎祝之一行仕 ぶしゃざきはふりのいちぎょうじ> 歩射崎は宇佐崎の旧称。一行仕

はこれまで全く知られていなかった用語ですが、松原八幡宮の祭事を担当した祝人(はふり

と)たちのまとめ役で、宇佐崎の旧家河野家の先祖がこの役をつとめたのではないかと思わ

れます。


<西脇 にしわき> 西脇は松原村の旧称。ただし、旧松原川(放生川)より東は当時松原

八幡宮の社地で、放生川以西の集落を西脇と称し、東・中・西の三地区に分かれていまし

た。


<西脇祝> 西脇に住んでいた神職。


<祝 はふり> 一般に神に仕えるのを職とする人は祝あるいは祝人(はふりと)と呼ばれ

宮司・禰宜(ねぎ)に次ぐ神職で、主として祭祀などに従いました。松原八幡宮の場合、当

時、神主系統の役人としては、宮司・禰宜は不在で、下位の神職としての祝(祝人)が西

脇・歩射崎・東山にいて、これらの人たちが神事にたずさわりました。


<壱ツ物 ひとつもの> 祭りの際、神幸行列のほぼ中心を馬に乗って進みます。松原八幡宮

では西脇(松原)中之丁の子供が選ばれ、天皇の勅使を表すものとされてきました。


<天童> 祭礼などで天人に扮した子供。仏教的な思想にもとづくもので、この世の守り本

尊としての天人が童子の姿をとって現われたものと考えています。当地の秋祭りでは西脇(松

原)西之丁と目賀(妻鹿)の子供が選ばれましたが、国司あるいは領主の使者と見なしてき

たようです。


<宿院殿 しゅくいんでん> 現在の神幸渡御の目的地である御旅八幡神社は、当時まだ存

在せず、ほぼ同位置に存在した宿院殿に神輿を安置して神事を執行しました。


<がうなをとし> 通称「ゴイナオトシ」と言います。「ごうな」はヤドカリの古名で、漢

字では「寄居虫」とかきます。


<目賀 めが> 妻鹿は、この当時「目賀」と書き、「目賀の津」とも言いました。


<金田村> 兼田村のこと。兼田は、荘園時代に松原荘が荘園外に荒地を開発してできた

田、すなわち加納田が訛った村名と思われます。


<行事坊> 神事を中心になって執行する八正寺内の僧坊。



 

播州飾磨郡松原山八正寺

現在、八正寺と言いますと、松原八幡宮の北東部に神社と隣接して建っている真言宗の普通


の仏教寺院として知られていますが、明治維新直後の神仏分離までは、通常の仏教寺院とは


異質の古い寺院で、松原八幡宮の神宮寺として寺内に宝積院・霊山院・文殊院など六つの塔


中寺院(僧坊)を抱え、松原八幡宮や社領(荘園)の維持管理と祭礼行事の執行がもっとも


大切な仕事でした。


この冊子を執筆された 寺脇 弘光 先生 の記述に準じ紹介しました。

祭り好きには、まだまだ興味尽きない内容が目白押しで、やさしく解説されています

この頃は、なぜ流鏑馬! 屋台の登場はいつ頃!

Keisyou-an

和服全般、祭衣装、神輿、屋台、地域の文化の情報をお届けします よろしければ Nifty へ

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